ある農園を、一人の洋傘直し(研ぎものなども請け負う人)が訪れます。湿った黒土に並べられたチュウリップが一面に咲き、かすかに揺らいでいます。

『チュウリップの幻術』宮沢賢治作、田原田鶴子絵、偕成社、2003 amazon
洋傘直しには、農園の主人のもののほか、用を取り次いだ園丁も自分の西洋剃刀を研いでもらったのですが、洋傘直しは園丁の分の代金を受け取りません。
そこで園丁は、農園の花々を見せることにしました。なかでも、ひときわ園丁が力を入れて紹介するのが、白い小さなチュウリップです。
二人でその花に見入るうちに、まっすぐ伸びた緑の柄が空に合図を送っているようにも感じられてくるのです。
「そうでしょうとも、それですから、ごらんなさい。あの花の盃の中からぎらぎら光ってすき通る蒸気が丁度水へ砂糖を溶したときのようにユラユラユラユラ空へ昇って行くでしょう」
立ち上る光の蒸気を、洋傘直しは「エステル」と表現します。化学工学的な用語を盛り込んでくるところは、宮沢賢治らしいですね。
「そして、そら、光が湧いているでしょう。おお、湧きあがる、湧きあがる、花の盃をあふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう青ぞらも光の波で一ぱいです。–(中略)− ふう、チュウリップの光の酒。どうです。チュウリップの酒。ほめて下さい」
園丁の、少し狂気をも感じさせる興奮。そこからチュウリップの光の盃で二人はチュウリップ酒を酌み交わすのでした。
花々の幻惑、光の酒に酩酊する洋傘直しと園丁。その世界が広がり収拾がつかなくなって飽和状態になったとき、二人はパッと我を取り戻します。
その後、すぐに農園を立ち去る洋傘直しを見送る、園丁の青ざめた顔は何を物語っているのか。いつから彼らは幻術にかかっていたのか。もしかしたら盃を交わす前から、かもしれませんね。
なんだか『注文の多い料理店』を彷彿とさせるような物語。迷い込んだ先のその出口は、果たして同じ場所だったのか。
現実と幻惑のはざまに迷い込んでしまったような酩酊感を、田原さんの重厚な油絵とともに味わうことができます。
にこっとポイント
- うららかな春の農園の花々の美しさを、文章とともに鮮やかな油絵が描き出しています。
- 宮沢賢治と同じく、東北出身という田原田鶴子さん。背景に描かれる、東北を思わせるような青く輝く山脈や雪に紛れた死火山も、うららかな春の情景の中で美しく味わうことができます。
(にこっと絵本 Haru)